沖縄戦はこの世の地獄だったことが分かる旧海軍司令部壕は幕僚の自決跡が残る戦争遺産。
沖縄と言えば、沖縄戦なしでは語ることができないのはその通りです。
過去の観光でも「ひめゆりの塔」に行って実体験をつづった冊子を読んだりしてその一部を見たりしてきましたが、もう10年以上前ですかね。
今回は旧海軍司令部壕へ行ってみました。ええ、ここに来るのは初めてです。とても天気のいい日で青い空が広がってます。
かりゆし58が歌う「ウージの唄」の歌詞を思い出します。この歌は何十回?聞いたかな。
「旧海軍司令部壕」は日本海軍設営隊の手によって掘られた長さ450mに渡る壕で、実際に中に入って見学ができると言うことでした。いわゆる戦争遺産になるんでしょう。
直近で言えば、東京要塞で、三浦半島にある猿島や観音崎公園へ行って砲台跡を見てますが、あちらは実際に使われることはなかった施設です(砲台は実際にありましたが戦争で使われることはなかった)。この日行った旧海軍司令部壕は本当に使われていた訳ですから重みが違いますね。ええ、あまりにも違いすぎます。
幕末から第二次世界大戦前にかけて東京湾の首都防衛拠点だった猿島で戦争遺産を見学。
観音崎公園。帝都東京と横須賀軍港を守るための東京要塞を構成する観音崎砲台跡へ。
慰霊塔。普段なら何気なく通り過ぎる慰霊塔ですが、やっぱりご冥福をお祈りして通らずにはいられません。
中に入ると、まずは資料館を見学してから壕に入るような順路になってます。
ちなみに、資料館も壕の中も撮影に制限はありません。ひめゆりの塔もそうでしたが、こちらの資料を見るだけでも鳥肌が立ってしまいます。まさに地獄を見ることになります。あまり語れません。「この世の地獄だった」ということがリアルに語られてます。
そして壕の中へ。
昭和19年に掘られた司令部壕と言うことです。終戦は1945年(昭和20年)ですので、1年間使われてたと言うことになりますでしょうか。
当時は450mあったらしいのですが、そのうち300mが公開されてます。堀跡が生々しい感じです。約3,000人の将兵が昼夜5ヶ月間かけ、手掘りで掘った壕です。
Webには「復元された」との記載もありましたが、かなり当時のままに保存されているようでした。
進んでいくと、資料館で予習した地獄絵がなかなかリアルに感じられます。
幕僚室。読むと辛いです。手榴弾で自決したそのままだそうです。話で聞いたり、手記を読んだりするのとは次元が違います。これがその本物なんです。
医務室だったところ。
下士官兵員室。当時は人だらけで立ったまま寝たそうです。地獄絵です。
緑のライトが見えてますが、ここは壕から出撃したところ。ほぼ戻ってくることはなく、「出撃=死」という生死の境目だったところです。
司令官室。
旧海軍司令部壕の司令官であった大田實少将はじめ幹部6名は、米軍の猛攻に昭和20年6月13日夜半、拳銃自決を遂げました。
旧海軍司令部壕事業所 Webより
沖縄に仕事で通い始めて、当時も基地問題なんかでよくニュースに取り上げられてました。現地に行くと実際にニュースになること、ならないこといろんな話を聞けて、興味をもっていろいろ本を読んだりしてましたけど、この歴史は変わることはないですし、まだまだ基地に占領されている沖縄の現実は当分続くんだろうと思うと、「大田少将」が残した電報の訴えはまだ報えていないんじゃないだろうかなと感じます。
那覇空港に着陸する前に、超低空飛行で飛ぶわけですが、きれいな海が見えて飛行機の中で楽しむ声が聞こえてくるのはいいとしても、実際その上空はまだアメリカ領であること、沖縄にいると、超低空で飛ぶオスプレイをとても頻繁に見ること。書き出したらきりがありませんが・・・。
豊かになったはずの日本と、見えない現実とのギャップを感じますね。
壕の中と壕から出てきてみるこの青空のギャップに息が詰まりそうになります。
ブログを書いてる2021年5月ですが、中国は尖閣諸島へ領海侵入を繰り返してますし、台湾併合を宣言してしまいました。決して平和という訳ではない時代になってしまいました。
那覇から近いですし、ここはまた来たいと思います。そしてひめゆりの塔にもまた行ってみたいと思います。
文章力がないのでうまく表現出来てませんが、沖縄に行った時には「ひめゆりの塔」と「旧海軍司令部壕」へ行くことをお勧めします。
-
9.沖縄 戦争遺産, 沖縄