やりたいことをぜんぶやろう!気ままな人生

「人間一生、物見遊山」そんな生き方をしてみたい。

 

軍神・上杉謙信が生涯本拠地とした難攻不落の名城、春日山城で越後の絶景を満喫です。

   

高田城を見学した後、近くにある春日山城へ行ってきました。

春日山城

春日山城は戦国時代の名将である上杉謙信の居城でした。難攻不落の名城でしょう。

ただ、よく難攻不落と言われてる春日山城なんですが、そもそも攻められていない・・・という話もあります。笑。

ここも訪問時はそれほど前知識なく、単純に名城と言われる山城を見てみたいという感じで訪問してます。ただ、当時の訪問前の印象ですと、石垣がすごいとか見栄え的にはどうなんでしょう、そうなんです、石垣もなくいわゆる「土の城」で、曲輪や空堀、土塁を造りあげた城なんですよね。なので地味と言えば地味です。

ただ、ここ最近は歴史小説で上杉謙信の活躍もそうですが、特に謙信の死後の「御館の乱」で上杉景虎と上杉景勝の争いを読んだばかりです。正直もう一度ちゃんと見てみたい・・・と思ってたりします。

高田城でこれでもかというくらい桜の絶景をみた後ですが、こちらの春日山にはそれほど桜は咲いてませんでした。植えてないんでしょう。

春日山城はその名前の通り春日山をそのまま城にしてしまったものです。

神社下の駐車場から少し登ると、有名な謙信の銅像があります。

生涯独身を貫いて、子供ももうけなかった上杉謙信ですから、「極端な噂」として女だったんじゃないか?みたいな話さえありますね。この時代自分の子供を何人も生んで四方と親類関係を気付くのが常套手段でしたので。

ただ、その結果、景虎、景勝という2人の養子を迎え入れて、跡目相続争いといが起きてしまい信濃の内戦で多くの命が奪われたことを考えると何とも言えないところです。

御館の乱では、景勝がなんとか勝利しましたが、その後秀吉から会津へ移封させられてしまいます。とはいえ、秀吉の死後、五大老の一人となった点では出世したと言えるんでしょうけど、関ヶ原の戦いの引き金が家康による上杉景勝の討伐だったという流れです。

銅像をぐるっと回ると本丸方面がきれいに見えてました。

三の丸の下までは舗装道路が続いてます。

眺めは越後の町と日本海まで抜群です。この謙信は同じ景色を見ていたんでしょうね。

三の丸。三郎景虎の屋敷だったところ。三郎景虎はもともとは北条氏康の七男だったんですが、上に書いた通り子供のいなかった上杉謙信の養子として上杉家に来ています。で、景虎という謙信の初名だった景虎という名前をもらうくらい破格の待遇を得たのですが、悲運の死を遂げることになってしまいます。

景虎は謙信に気に入られていたとはいえ、外(小田原)から単独で越後に乗り込んで、直属の配下の兵も持たず・・・なかなか苦悩の人生だったんじゃないかなぁと思います。そもそも北条氏と謙信は仲が良くなかったわけですし。

三の丸から二の丸の方へ向かいます。

ふきのとう。

カタクリの群生。ちょうどいいタイミングでした。きれいですよね。

下は二の丸と左に見えるのが一本イチョウ。

護摩堂と諏訪堂。謙信はここで一心不乱に護摩焚きをやってたんでしょう。

護摩堂からはこの眺めです。

毘沙門堂と毘沙門天。

本丸、天守台の後ろにある井戸跡。廃城から400年以上たった今も水が湧いてます。本丸から数mくらい下ったほぼ山頂付近なんですが、この水はどこから来るんでしょう。説明書きにはサイフォンの原理で西方の山から流れてくるという事でしたが、非常に珍しい井戸じゃないかと思います。

そして本丸と本丸からの眺め。

天守台と天守台からの眺め。

イカリソウかな。とってもきれいでした。

カタクリも1ヶ所だけではなく、山全体のいたるところに群生してます。山でもよく見てましたが、これだけの群生は見たことがありません。

ショウジョウバカマ。

ではでは、千貫門方面から戻ります。こちらに直江屋敷なんかがあります。

登山はしばらくご無沙汰なのでショウジョウバカマは久しぶりにみました。ほんとに綺麗です。

千貫門。ここから下が御館の乱での戦場となった場所になるんでしょう。

最後は春日山神社を経由して戻りました。

川中島で死闘を繰り広げた武田信玄と上杉謙信、どちらも戦国時代の名将と言われ神がかりな強さを誇ったのですが、武田家は信玄の死後、勝頼で武田家は滅亡、上杉家は謙信の死後「御館の乱」で壮絶な内戦となります。

戦国時代をいろいろ調べてみるとやっぱり面白いですね。



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